02 松っこごれ地蔵

02 松っこごれ地蔵

  高木二丁目の志木街道の路端に小さなブロックの地蔵堂があります。
  地蔵堂の中には右手に錫杖、左手に宝珠を持った身の丈百五十センチメートルの立派な石のお地蔵さんが祀られています。

 お地蔵さんの背面には
  毎日晨朝入諸定                 晨朝 あさまだき 早朝
  入諸地獄令離苦
  無仏世界度衆生
  今世後世能引導
という文字が刻まれています。

 昔、このあたりが一面の原だった頃から、「いぼ地蔵」といわれ村の人達の信仰を集めていました。このお地蔵さんにお願いするとがんこないぼもいつの間にかコロリと取れてしまうからなのです。
 いぼを取ってもらった人は、お礼に山から「松っこごれ」(松かさ)を取ってきて木綿の糸でつなぎ、首や手にかけてあげました。いつも松っこごれでかざりたてられているので、いつしか「松っこごれ地蔵」といわれるようになり親しまれていました。

 昔は地蔵堂もなく広い原にポツンと立っていましたので、子供達の良い遊び相手にもなったようです。男の子は棒を振りまわしてお地蔵さんの廻りを飛びまわり、女の子は子守りをしながらままごと遊びをしました。お地蔵さんの台座でもち草つきでもしたのでしょうか、台座に石でたたいたようなあとが沢山残っています。

 信心深い村の人達はお地蔵さんに木のお堂を作ってあげました。お地蔵さんはそれからも長い年月、お堂の中からじっとみんなを見守ってきたのです。

 このお地蔵さんは、いつ頃誰の手によって高木の原に祀られたものか今では知る人もありませんが、村山六地蔵の一つといわれています。

 昭和三十八、九年頃めことです。ひどい台風が過ぎ、一夜が明けると、高木地区の人達はびっくりしてしまいました。地蔵堂がばらばらにこわれお地蔵さんは台座からころげ落ち無惨にも首がとれてしまっていました。

 今度は丈夫なブロックでまわりを囲い、幸いこわれていなかった屋根をのせ、鉄の扉をとりつけたお堂ができあがりました。

 その時、宮鍋さん、関田さんの屋敷内にあった馬頭観音二体もこのお堂の中に一緒に納められました。箱根ヶ崎や青梅に通じる志木街道は、昔から人や馬車の行き来が多く、お地蔵さんの前の細い道も昭和になってから道幅が広げられました。土地の人は今でも新道とよんでいます。

 のどかな風景もなくなり、現在はお地蔵さんの前をひっきりなしに車が西に東にと走るようになってしまいました。お地蔵さんの顔もいつの間にかすりへってしまい、昔の表情はうかがえませんが、今もお参りのたえることなく、昔通りに松かさが沢山供えられお堂の中におさい銭さえ見られます。

 現在高木地区自治会の手により大切に管理されているそうです。(『東大和のよもやまばなし』p4~6)


『昔、このあたりが一面の原だった頃から、「いぼ地蔵」といわれ一村の人達の信仰を集めていました。このお地蔵さんにお願いするとががんこないぼもいつの間にかコロリと取れてしまうからなのです。いぼを取ってもらったひとは、御礼に山から“松っこごれ”(松かさ)を取ってきて木綿の糸でつなぎ、首や手にかけてあげました。いつも松っこごれでかざりたてられているので、いつしか「松っこごれ地蔵」といわれるようになり親しまれていました。』

今は場所を高木神社・明楽寺墓地に移されていますが、松っこごれはちゃんと肩にかけられています。造立の年号は不詳です。背面に
毎日晨朝入諸定                 晨朝 あさまだき 早朝
入諸地獄令離苦
無仏世界度衆生
今世後世能引導

と、延命地蔵菩薩経の偈(げ)『我毎日晨朝入諸定。入諸地獄。令離苦。無佛世界。度衆生。今世後世。能引導。』が彫られています。延命地蔵尊であることがわかります。(偈=仏を称える言葉・詩形に整える)